ディーバ Blog

大阪発 C#の会社、株式会社ディーバの Blog です。

社長になって丸7年が経ちました

青柳 @ShinichiAoyagi です。

私が代表取締役を務める 株式会社ディーバ は先月で26期を終え、今月から27期目となります。ほんとに早いものです。
私が代表取締役に就任したのは2010年11月ですから、就任後7期が過ぎ、今月から8期目ということになります。

以下、長文、かつ、単なる昔話、自分語りです。

創業時のこと

もともとディーバは私の友人と私とで立ち上げました。
1992年(平成4年)のことです。
ディーバ立ち上げ前のことになりますが、私は大学を中退してからフリーランスのプログラマーをしてました。聞こえよくフリーランスなんて言ってますが、ぶっちゃけ時間精算のフリーターです。主にPC-9801とPanacom M用にN88-BasicとM-Basicのコードをガリガリ書いていました。それだけでなく正社員でもないのに開発チームのリーダーをやったりもしてました(笑)。
そのときに知り合った人から「誰か○○のアプリを作らない?売るよ」という話があったんですね。当時は職場でコードを書き、家に帰ってから趣味としてまた別のコードを書き、という生活でしたが、ちょうど趣味コードの題材が切れていたのでじゃあそういうアプリを作ってみようかと。正直売ったりするような考えはほとんどなく、C言語でWindowsアプリを作ってみたい!というのが動機でした。Microsoft C Ver.6は持ってる、Windows 3.0 SDKは買ってきた(9万円以上したので当時の私にはかなり大きな出費でした)、これでいっちょWindowsアプリを作ってみようと。ちなみに、まだマイクロソフトからはC++コンパイラはリリースされてませんでしたのでC一択でした。Windowsは3.0がリリースされたばかりの頃です。チャールズ・ペゾルド氏の「プログラミングWindows(日本語版)」を読んでいたのでその影響でWindowsアプリを作ってみたかったんです。ただこの「プログラミングWindows」はWindows 2.11向けのものでした。Windowsは2.11と3.0とではカーネルレベルで別物と言っていいくらい変わっているので記載されているコード例とかはほとんど役に立ちませんでしたが、Windows SDKについていた電話帳のようなリファレンスマニュアルを見ながらなんとかコードを書いてました。参考になる資料はそれくらいしかありませんでしたから。一人でコツコツ書いてただけですが楽しんでやってたのを覚えています。
ちなみに、3.0向けの「プログラミングWindows 3.0(日本語版)」などが出版されたのはだいぶ時間が経ってからでした。その後このチャールズ・ペゾルド氏の「プログラミング○○○」シリーズは脈々と続きますが、最新作は「プログラミングXamarin」というXamarin.Formsの分厚い上下巻のヤツです。

こんな感じで趣味として作ったアプリを、まだまだ未完成ですが骨格ができたところくらいでお披露目してみたところ「本気で開発しないか?」という流れになりました。そうは言っても職場で新プロジェクトとして採用されるわけでもなく、自分で起業するようなつもりもないし、どうするのがいいかと友人に相談していたんですが「なら一緒に起業するか」となりました。その友人はパソコンなんて大嫌いといういわゆる文系人間ですが、逆に経営とかそういったことにはちょっと興味あるな、というタイプだったので二人三脚でなんとかなるんではないかと。

これがディーバ設立のきっかけです。
そして、このきっかけになった私が作っていたというアプリは今でもディーバが開発・販売している 管彩 という給排水申請業務向けのCADソフトです。
友人が代表取締役や営業・経理など開発業務以外のすべて、私は開発に専念という、まさに二人三脚で始まりました。

ちなみにこの管彩ですが上記のようにWindows 3.0が出た直後から作り始めたのでWindowsで動くCADアプリとしては日本初(もしかしたら世界初)くらいだったんではないかと思います。当時もAutoCADなどいくつかのパソコン向けCADソフトはありましたがどれもMS-DOS版で、Windows版が出たのはかなり時間が経ってからだったようです。まぁ、個人が趣味で作り始めたのがもともとだから、普及するかどうかわからないWindowsなんてものを採用できたわけですが。

創業後のこと

管彩の販売やユーザーサポートなどは協力関係にあった会社にすべて任せ、ディーバは開発のみを担当しました。というか、創業前から販売やユーザーサポートをしてくれるという会社さんが決まっていたから起業できたわけです。販売ルートの開拓まで自分たちでやらなくてはいけないとなったらとても起業なんてできなかったと思います。今にして思えばとてもラッキーでした。
創業後しばらくは管彩の機能追加や不具合対応などで手一杯でしたがそれが落ち着いてきた頃から受託開発も引き受けるようになりました。それまでに知り合った開発会社さんから「手が空くようなら手伝ってほしいことがあるんだけど」と依頼されたのがきっかけです。
社員もちょっとづつ増えましたが、友人(社長)はむやみに人数増やさず少数精鋭でいきたいという考えだったので一番多い時期でも10人くらいでした。一時期事務の人を雇ったりしたこともありましたが基本的にはみんな開発者でした。

受託開発はSIerの下請け案件も多くやりましたし、ユーザーさんからの直での案件もいろいろやりました。
下請け案件では、いわゆる上流工程のSEさんが書いた(正直言ってものすごく読みにくい)Excel方眼紙の設計書を見ながらコード書いたりとか、逆にこちらがExcel方眼紙の設計書を書く立場になったりとか、いろいろやりました。言語もC、C++、VB6、Java、VB.NET、C#などなどSIerさんが採用するような言語はほとんどなんでもやりました。Delphiとかもやりましたし、Windows Mobile(Windows Phoneになる前)のアプリをC++とMFCで作るなんてのもやったことあります。
ユーザーさん直の案件ではいろいろとチャレンジングなこともさせてもらいました。もちろんユーザーさんがOKしてくれればですけど。C#がリリースされた2002年に「この言語が使いたいです!」と言って使わせてもらったりとか。もちろん2000年に.NET Frameworkがαリリースされたときからちょこちょこと触っていたので「これならいける」と思っていたからですけど。あとは1999年にSQL Server 2000のベータ版を使って開発を始めたりとか。Xamarinもそうです。まだXimianという名前だったころから英語のメーリングリストを購読したりしていつか使いたいと思ってました。さすがにリリース直後に即採用とはいきませんでしたが、Xamarinが(Xamarinという名前で)リリースされたのは2013年11月で、ディーバで最初にXamarinを案件に使ったのが2014年の夏頃です。

管彩についても
上で書いたように最初のバージョンはMS-Cで書きました。Windows 3.0の時代ですからもちろん16bitアプリです。farポインタ、nearポインタなんかがある時代ですね。hugeポインタだとパフォーマンスが落ちるってことで独自にメモリ管理ロジックを作ったりしてました。
Ver.2のときにBorland C++で全面的に書き直しました。これもチャレンジの一種ですね。どうせバージョンアップするなら中途半端にやるのではなく全部新しく作り直そうと。Borlandなのは当時はMFCよりOWLの方がよく見えたからです。このときもまだ16bitアプリの時代でした。
その後、32bit化したり、大きな機能追加をしたり、今ではなくなりましたが電気設備対応版を作ったりといったことをしながら細かくバージョンアップしていきました。
そして現在のバージョンである管彩7へと繋がります。この管彩7はまたまたそれまでのバージョンのソースコードは捨てて完全にC#とWPFで書き直しました。C++時代のコードは1行も残っていません。アーキテクチャーから見直してきれいさっぱり全部書き直しました。今にして思うと、よくそんなことしたなぁとは思います(笑)

代表取締役交代のこと

それなりに順調にやってきましたが、2010年11月17日付けで前社長である友人に代わって私が代表取締役に就任しました。登記上はこの日付ですが本格的に新体制になったのは2011年になってからです。
創業からずっと代表取締役を務めてくれていた友人は、もともと会社が軌道に乗ったら誰か他の人に任せて自分はまた別のことをするつもりという考えで、そう公言してましたし後継者探しもそれなりにしていました。
そんな中、2009年くらいからでしょうか、肉体的にも精神的にもかなり弱っていたようで社長交代を急ぎたいということになったんですが、後継者にと思っていた人もいろいろあってそういったことができる状況ではなくなってしまい、さてどうしようか、となりました。前社長は丸ごと身売りするというのは拒否していたので、そうなると誰かがあとを継ぐか解散するかとなりますが、当然創設者でもある私があとを継いではどうかという話もありました。けど、やっぱり私は開発がしたい人であって経営がしたいとは思えなかったですし向いているとも思えなかったのでそれはナシだな、と。それで一時は「解散へ」という方向になりましたが、それまでにお世話になっていた何人かの方々(数十名から100名を超えるような会社の社長や重役をやられている方々)から「20年近く続いた会社というだけでも武器になる。青柳さん一人でもいいから会社として存続させてはどう?」というアドバイスをいただきました。複数の方から同じアドバイスをいただいたので「なるほど、そうなのか」と思い始めました。ちょろい(笑)。友人(前社長)も本意ではないがそうしてくれるならうれしいという考えでした。本意ではないっていうのは、私に会社を譲るのがイヤという意味ではなく、創業当時から「ディーバの最大の武器は青柳が開発に集中できること」と思っていてくれていたので経営という(開発という面から見れば)余計なことをやらせたくないという意味です。そんなこんなでいろいろ考えた結果、正直迷いはありましたが、一人の会社ならフリーランスと同じようなものだし(と当時は思っていた)、幸いにも当時の社員たちはほぼみんな順調に転職先も決まったし、ということで一人会社として再出発することにしました。

私が代表取締役になってからのこと

実際には一人きりではなく、仕掛中の案件の都合で私と社員1名の2名体制での再出発でした。
再出発と言っても特に何かが変わったわけではなく、継続案件や他から回してもらった案件などを細々とやっていただけです。私自身も経営者になったという意識もなく、目の前にあった案件をそれなりにこなしていただけという形です。

けど、やっぱりそれじゃすぐに立ち行かなくなりました。継続案件と言ってもいつまでも続くわけもなく、新規の案件も規模的になかなか見合うものがなく、売上的にはかなりきびしい状況になっていきました。社員には約束した最低限の給料は払ってましたが私自身はほとんど給料も取らず、2013年の私の年収は150万円だったくらいです。

さすがにこのままじゃいけない、なんとかしないとと気だけは焦っていましたが、そんなときに程よくいくつかの案件の話をもらい、また、ディーバの元社員(独立したりフリーランスでやってる人)に手伝いに来てもらったりして2014年くらいからちょっとづつ上向いてきました。と言っても、私が経営者としてなにかした結果ではなく、単にめぐり合わせがいい方に向いただけですが。
今になって考えるとこの頃常駐案件に走らなくてよかったと思います。当時もやっぱり常駐の話は多かったですし、「青柳さんとこなら常駐でよければどんだけでも話あるよ」とも言われていましたが創業以来ずっと常駐の仕事はやってこなかったのでそういう案件を取る気はありませんでした。前社長はずっと「人売りの仕事をやっても会社にとっても本人にとってもなにもいいことはない」と言ってましたからそれが染み付いてたんです。

ここでちょっと事務所のことを。
ディーバ創業時に大阪市中央区東高麗橋のマンションを事務所として借りました。事務所使用可のマンションでしたが作りはごく普通のマンションです。ここには2年ほどいました。
1994年に大阪市中央区平野町のビルに移転しました。今度はオフィスビルです。20坪ほどありました。一時期はこれだけでは足らず同じフロアのもう一部屋(7坪)も借りていました。その後、私が代表取締役になるまでこの事務所でした。
私が代表取締役になってすぐの2011年1月に別フロアの7坪の部屋に移動しました。それまでの事務所(20坪)はさすがに広すぎるなということでビルの管理会社(不動産屋)に相談したら、ちょうど同じビルに空き部屋があり、そこなら保証金はそのまま移動ということでいいよと言ってもらえたので移ることにしました。引っ越しもエレベーターで移動するだけなので自分たちでやりました。
この7坪のオフィスにはトイレや収納もありましたからこれらを除くと5坪くらい、10畳ほどしかなく、4人分のデスクと打ち合わせ用の小さなテーブルを置いただけでぎゅうぎゅう詰めでした。
すでに書いたように最初のうちは2人程度で細々とやっていたのでこれでも十分でしたが、2014年くらいからは仕事も増えてきてなにかと手狭に感じるようになってきました。そんなときにオーナーの意向でビルを取り壊すことになったので出ていって欲しいという話がきました。
この話はとってもラッキーでした。オーナー側都合での立ち退きなので保証金は全額返金、引っ越し代は出してくれる、立ち退き料として若干のお金も貰える、ということで自己負担なし(むしろちょっとだけ儲かって)引っ越しすることができます。
こうして2015年3月に大阪市中央区淡路町の現在の事務所に移転しました。現事務所は20坪(67㎡)あります。10名分くらいまでならデスクを並べられそうです。
(ちなみに元いたビルはすぐに取り壊され今ではビジネスホテルになっています)

事務所移転にあわせてハローワークに求人を出しました。私が代表取締役になってからは初めての求人です。本当ならIT系の求人サイトとかに出すのがいいんでしょうがなにぶん初めてなのでまずはハローワークからです。
すぐに何人かの方から話を聞かせて欲しいと連絡がありました。もっともハローワークではなく私がTwitterに「ハローワークに求人出した」とつぶやいたのを見た人たちからでしたが。あと勉強会で求人しているという話を聞いて連絡をくれた人もいます。結局、ハローワークからは1件の問い合わせもありませんでしたが直接連絡をくれた人たち3人を採用することができました。2015年5月に1人、7月に1人、10月に1人です。

社員が増えたからと言って仕事が急に増えるわけではありませんから最初のうちはかなりきびしかったです。けど、幸運なことにちょっとづつ仕事も増え、それなりになんとかやってこれました。今ではなんとか「とんとん」と言えるくらいにはなっています。

さて、今ではなんとか「とんとん」と言えるくらいになってるとは言っても、決して私が経営の手腕を発揮したとかそんなことはまったくこれっぽっちもなく、単に運がよかっただけです。いろいろ思い返すとほんとにそう思います。前社長から続く流れに乗っていただけと言ってもいいようにも思います。経営についてどうのこうのと考えて実践した結果ではぜんぜんなく、毎日のようにコード書いて打ち合わせしてと忙しくしていたらいつの間にか時間が経っていて、運良く今の状況になっていました。
このまま同じようにしているだけではよくて「とんとん」なんだろうなと考えています。なので、今後はもうちょっと経営というものに重きをおいてみようかと思っています。代表取締役就任後、丸7年経ってから言うことではないかもしれませんが(笑)
(けれども、IT系の勉強をやめるつもりはありません。これはそれこそ趣味みたいなものですから。まぁ、そもそも勉強だとは思ってませんが)